2011/05
造船技術者 ヴェルニー君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 5]


ヴェルニー公園にある
小栗忠順とヴェルニーの胸像


 JR横須賀駅を出ると横須賀湾の海岸にヴェルニー公園がある。公園の中ほどに幕末に横須賀造船所建設を計画した勘定奉行小栗忠順(おぐり・ただまさ)と、建設に携わったフランス海軍技師ヴェルニーの胸像が並んで建っている。ヴェルニー公園から対岸に旧横須賀造船所のドッグを見ることができるが、現在は米軍基地となっているので普段は入ることはできない。
 幕末、ペリー来航により下田と箱舘を開港し、1858年の通商修好条約により幕府は神奈川、箱舘、長崎、新潟、兵庫の開港を約束した。神奈川には各国の領事館が開設され、外国人居留地は横浜に開拓された。
 先鞭をつけた米国、アジアに植民地を展開するイギリス、南下を狙うロシア、更にはフランス、オランダの5カ国が競争と協調で我が国に迫ってくる中で、イギリスが薩英戦争後薩摩に急接近するのに対抗して、フランス公使ロッシュが幕府に接近した。
 幕府はオランダの支援で長崎海軍伝習所を設立して海軍教育を始め、更には船の修理や造船のために長崎製鉄所(造船所)を設立した。しかし、西南雄藩に近い長崎は江戸から遠すぎると判断した幕府は、長崎海軍伝習所を3年で閉鎖して、築地に軍艦操錬所を開設した。そしてフランス公使ロッシュの提案で、幕府は横須賀製鉄所(造船所の当時の呼称)設立を決めた。
 フランス造船技師ヴェルニーは上海で艦船建造に従事していたが、1865年に来日した。ヴェルニーは1837年生まれの29歳、パリのエコール・ポリテクニクを卒業し、海軍工廠で造船技術を学んだ優秀な技術者である。来日に当たってはバスチャン、デュモン、レイノー等のスタッフの他、フランスから多くの技術者も連れてきた。
 幕府が計画した横須賀製鉄所は製鉄、修船、造船の三部門があり、更に機械工場や煉瓦製造工場まであり、建設計画は4年であった。この他に小規模な横浜製鉄所が1年で造られた。この製鉄所は艦船修理の他、横須賀製鉄所建設のための各種機械の製作を行い、更に日本人技術者に洋式造船を学ばせる役割も担っていた。
 幕府が崩壊すると、建設途上の横須賀製鉄所は維新政府に受け継がれ、1869年に大蔵省の管轄となり、1871年に完成して横須賀造船所と呼称を変更した。その後1872年には海軍省の管轄となり、横須賀海軍工廠として我が国の主力造船所となっていく。
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 ヴェルニーのもう一つの業績は灯台建設である。周囲を海に囲まれた我が国は江戸時代から物資輸送を海運に頼っていた。幕末に海外各国の往来が増えてくると、航海の安全のため灯台建設の要求が高まってきた。明治政府はイギリスに灯台建設技術者の派遣を要請するが、急場しのぎに横須賀造船所建設のヴェルニーに灯台建設を依頼した。
 明治2年(1869)に、ヴェルニーの設計による観音埼灯台が造られた。日本で最初の洋式灯台で、地上高12m、光源は石油ランプ、フレネルレンズを使用して光の到達距離は14海里(約26Km)と云われている。この灯台は横須賀造船所製の煉瓦造りで四角の洋館風建築灯台だが、関東大震災で亀裂が入り取り壊された。現在の観音埼灯台は3代目である。ヴェルニーの設計による灯台は野島崎灯台(1869)、品川灯台(1970)、城ヶ島燈台(1970)の4基だが、現存しているのは品川灯台のみで、博物館明治村に保存されている。
 横須賀製鉄所の技術者が関わった事業としては、官営富岡製糸所がある。明治の始め、横浜の外国商社は競って日本の繭を買い漁った。日本の養蚕の品質が良かったためでは無く、ヨーロッパでペストが流行り、養蚕が壊滅状態にあったからだ。
 フランス商館のポール・ブリューナーは政府に製糸所の建設を提案し、工場は横須賀製鉄所の技師バスチャンが設計して1872年に創業した。運営はブリューナーとフランス人技師10数名、日本人の責任者は尾高惇忠。彼は渋沢栄一の従兄である。この工場は蒸気機関を使用した近代的な製糸工場で、繭や生糸の輸出製品を生産するとともに、武士の子女を女工として採用し、指導者を養成するモデル工場でもあった。この官営工場はその後民間へ払い下げられ、現在は近代化遺産として保存されている。
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 明治3年10月20日に工部省が設立されたのを記念して、平成17年に「近代化遺産の日」が制定され、各地で近代化遺産が公開されている。
 平成21年10月20日に横須賀市教育委員会主催の「旧横須賀製鉄所見学会」があり、普段は見られない米軍基地内の1号ドックなどの施設を見る機会に恵まれた。明治4年に竣工した横須賀製鉄所には第1号ドック、2号、3号ドックがあり、いずれも石組積みのドックで今も現役で使用されている。最初は工部省所管の造船所であったが、明治4年より海軍の造船所となり、明治17年より横須賀鎮守府造船所となった。旧横須賀鎮守府の庁舎、4〜6号ドックも米海軍が使用しており、造船部工場・造機部工場も残っている。第6号ドックは全長300mを超す当時東洋最大のドックで、一部石積を使用したコンクリート造りのドックであった。
 横須賀のヴェルニー公園の海沿いにヴェルニー記念館があり、造船所で使用されていたスチームハンマーが2基展示されている。1865年オランダ製の3トンスチームハンマーは、幕末石川島造船所用に肥田浜五郎が買い付けに行ったものだろう。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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